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文教人

教育委員会 : 2023/07/14

佐川の風土と文化が生んだ「文教人」は今なお、町の人びとの誇りとして、文教のまちに息づいている。
その事績を今に伝えるのは、墓碑や記念碑だけではない。
さかわの人びとの心の中に綿々と引き継がれていく。

牧野富太郎(まきの とみたろう)


牧野富太郎写真

牧野富太郎写真(若き日の牧野富太郎)

1862年−1957年 植物学者。

造り酒屋の一人息子として西町に生まれ、名教館で学ぶ。
明治14年(1881)家業の造り酒屋を処分し上京。以後植物分類学に人生を捧げる。

明治21年(1888)「大日本植物志図編」を自費出版、同22年には日本人として初めて新種発見の植物「ヤマトグサ」を発表する。
「−志図編」を第11集まで出版するなど貧困窮乏に耐えながら独力で「植物学の父」と呼ばれるほどの権威となった。



牧野富太郎生家跡

博士が採集した標本は60余万点、命名発表した新種は千種を越える。
町花・町木の「サカワサイシン」「稚木の桜」も博士の命名によるもの。
佐川町名誉町民(昭和30年)。




田中光顕(たなか みつあき)


田中光顕写真

1843年−1939年 政治家。

深尾家家臣浜田金治の息子として生まれ、維新期土佐勤王党に入党。
元治元年(1864)同士等と脱藩し、以後長州を頼り志士活動に奔走した。



田中公園碑

維新後、新政府に出仕し陸軍少将、初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任。
明治31年(1898)には宮内大臣に就任し、以後12年間務めた。

政界引退後は、維新烈士の顕彰に尽力し、志士たちの遺墨・遺品を多く収集するなどした。
青山文庫には光顕伯の寄贈による多くの歴史的資料が収蔵されている。

従一位勲一等伯爵。号は青山。




水野龍(みずの りょう)


水野龍写真

1857年−1951年 移民事業指導者。

上郷に生まれる。
自由民権運動に奔走後小学校教員、県庁員、巡査などを経て、明治38年単身ブラジルを視察。
移民事業に乗り出す。


明治41年皇国殖民会社を設立、大正10年までに2万人超のブラジル移住を果たした。

ブラジル在留邦人より「移民の父」として今も慕われている。




西谷退三(にしたに たいぞう)


西谷退三

1885年−1957年 英文学者。

佐川の旧豪商に生まれる。
札幌農業大学在学中ギルバート・ホワイトの「セルボーンの博物誌」に魅せられ、イギリスに渡った。



セルボーンの風景

帰国後は独りこもって閑居し、彼の姿を見ることは希であった。

死後、「−博物誌」の膨大な翻訳原稿が見つかり、後日盟友の森下雨村によって出版された。




広井勇(ひろい いさみ)


広井勇写真

1862年−1928年 工学博士。

深尾家家臣広井喜十郎の子として上郷に生まれる。
幼少の頃父を失い、片岡利和(明治天皇侍従)を頼り上京。
札幌農学校に学び欧米に留学。
東京帝国大学工科の教授となる。

港湾築造技術に優れ「港湾博士」のとして知られた。




古沢滋(ふるさわ しげる)


古沢滋写真

1847年−1911年 政治家。

上郷に生まれる。
名教館で学び勤王倒幕運動に参加。維新後、新政府に出仕し明治3年イギリスへ留学。
帰国後、板垣退助らと愛国公党を結成、民撰議院設立建白書を起草した。

後に官界に再び入り、奈良、石川、山口などの知事を歴任、明治38年に貴族院議院となった。




川田豊太郎(かわだ とよたろう)


川田豊太郎写真

1869年−1949年 川田文庫開設者。

西町に生まれる。
明治29年佐川郵便局長となり、傍ら町会議員を務めた。

明治43年自宅を改造し「川田文庫」を開設。
地方における図書館事業の先駆けとなった。



往年時の青山文庫

財団法人「青山会」を設立し、田中光顕伯から寄贈された維新関係資料と川田文庫をもって青山文庫を開いた。




森下雨村(もりした うそん)


森下雨村写真

1890年−1965年 編集者・小説家。

上郷に生まれる。
上京後、博文館に入り、大正9年「新青年」の創刊に携わる。



森下雨村文学碑

海外探偵小説を翻訳紹介するとともに、編集者として江戸川乱歩、横溝正史など多くの小説家を世に送り出した。

「探偵小説の生みの親」と称される。




伊藤蘭林(いとう らんりん)


伊藤蘭林写真

1814年−1895年 儒学者。

深尾家家臣伊藤徳正の子として上郷に生まれる。

名教館で学び長じて教授となり、多くの深尾家臣子弟を訓育したことから、田中光顕以下、佐川郷内から輩出した志士は皆蘭林門下である。



伊藤蘭林邸

維新後の名教館廃止後も終生家塾を開いて郷党の子弟を教導した。




土方寧(ひじかた やすし)


土方寧写真

1859年−1939年 民法・イギリス法学者。

深尾家臣土方直行の長男として奥の土居に生まれる。
名教館に学び東京大学法学部卒業後、イギリスに留学。



土方寧記念碑

同大教授として教鞭をとり、大正11年には勅撰貴族院議員となる。
英国法、民法の研究の第一人者で、英吉利法律学校(現中央大学)の創立者の一人。




外山国彦(とやま くにひこ)


外山国彦

1885−1960年 音楽家
西町に外山頼寛の長男として生まれる。
高知一中から東京音楽校予科に進み声楽を学ぶ。卒業後、広島師範学校の教壇に立ち、その後、山田耕筰、弘田龍太朗などとコンビを組んでステージで活躍、日本で初めて「独唱会(リサイタル)」を行った人物。
門下生として、黒田進(楠木繁夫)、奥田良三、下八川圭祐など多くの人材を育てた。




下八川圭祐(しもやかわ けいすけ)


下八川圭祐写真

1900年−1980年 声楽家。

黒岩四ッ白に生まれる。
佐川高等小学校卒業後、上京し、東洋音楽学校(現東京音大)に入学。

藤原歌劇団結成と同時に参加、オペラの日本初演に数多く出演し、常にわが国オペラ界の第一線において活躍。

1940年東京声専音楽学校創立・校長就任。
1972年藤原歌劇団総監督就任。

佐川町名誉町民(昭和49年)


下八川圭祐寄贈ピアノ




楠木繁夫(くすのき しげお)


楠木繁夫写真

1905年−1956年 歌手。

西町に生まれる。
上京、東京音楽学校中退後、多くのレコード会社を渡り歩いた後、昭和10年テイチクレコードでの「緑の地平線」(作曲古賀政男)がヒットし、一躍流行歌手となった。

戦後も「紅燃ゆる地平線」「ハルピン恋し」 などヒットを出し、紅白歌合戦にも出演した。




土井八枝(どい やえ)


土井八枝写真

1879年−1948年 随筆家。

西谷の旧家林家の長女に生まれる。
詩人土井晩翠と結婚後、仙台へ。
「仙台方言集」「土佐方言集」などを出版。
随筆集「藪柑子」では、方言収集の苦労や佐川の思いで、風物などが語られている。




和田豊洲(わだ とよす)


和田豊洲写真

1896年−1991年 動植物研究家。

尾川神母に生まれる。大学卒業後、営林局技官となる。

牧野博士の愛弟子であり、小鳥の生態研究、愛護に関心が深く、「小鳥博士」と呼ばれた。
環境と自然保護に熱意を注ぎ、特に「ワカキノサクラ」に対して格別の愛情を持ち続けた。

佐川町名誉町民(昭和49年)。



山崎正光(やまさき まさみつ)


山崎正光 画像

1886年 − 1959年  天文学者。

日本人として初めてすい星を発見した天文学者
本三野に生まれる。
佐川高等小学校から県立高知海南中学校へと進みカルフォルニア大学天文科に入学。
反射鏡のピッチ(アスファルト)による研磨技術を習得し、日本に初めて導入。
昭和3年10月日本人初となるすい星を発見。「山崎・ホルベスすい星」と名付けられた。のちに英国クロンメリン博士により軌道計算され、このすい星が27.4年周期であることが分かった。



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